圓(まどか)

古い街並み散策

里見安房守忠義と八賢士ゆかりの地

里見忠義(「南総里見八犬伝」所収)慶長19年(1614)のこと、房州(千葉県)館山十代城主・里見安房忠義公は、倉吉に転封されて大岳院門前に居住。29歳の若さで関金において逝去するまでの8年間を当地で過ごした。 そして、最後まで忠義公に従った家臣8人は、主が逝った3ヶ月後の命日に殉死。遺言により、忠義公と共に大岳院に葬られた。

このとき、大岳院で授けた忠義公の法名は「雲晴院殿心叟賢凉大居士」。家臣8人全員の法名にも「賢」の字をつけたところから、彼らは「八賢士」と呼ばれることになる。のちにこれが、滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」のモデルになったのではないかと伝わる。

萬祥山 大岳院萬祥山 大岳院
里見安房守忠義公と家臣8人の墓塔が鎮まる曹洞宗の名刹。 忠義公から寄進されたと伝わる「三彩稜花刻花文盤(県指定保護文化財)」を所蔵。 光格天皇の御生母.大江磐代君ゆかりの寺でもある。 また境内には、因伯の名水「大岳院羽衣井」が湧く。


倉吉の中心を東西に走る道は、その昔、八橋往来と呼ばれた街道。内陸部の城下町倉吉と、海岸沿いの町を結ぶ往来で、当時、倉吉の大切な産業であった木綿や鉄などを運搬する道として、たいへん重要な役割をになっていました。 初めて正確な日本地図を作った偉人、かの伊能忠敬もこの街道を自らの足で歩いて実測。200年経った今も、確かに往時の面影に出会えるような情緒があります。

平成10年、伝統的建造物群保存地区にしていされた昔ながらの街並みは、平成13年には浪漫ある街並みとして、夢街道モデル地区に認定されました。時代に置いてけぼりにされているようで、実は、時代の真っ先にいるかのような癒しの空間、ここは倉吉。

果敢にも海を渡りながら、その姿はあくまでもつぶらな『打吹公園だんご』を愛してくれて育んでくれた、とても大切な街並みです。

打吹公園だんごを育んだ街「倉吉」ぶらり散策マップ

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